12月6日に亡くなられた早川文司さんの通夜と葬儀が、それぞれ8、9日に広島市中区の圓隆寺でしめやかに執り行われました。

サンフレッチェなどサッカーの名手をはじめ、両日とも早川さんが愛した広島のスポーツ関係者、とりわけ強い思い入れを抱いたハンドボールからも数多くの弔問客がひっきりなしに訪れ、早川さんとの別れを惜しみました。

こよなく愛した広島ハンドボール

 中国新聞社運動部などで50年近いジャーナリストキャリアを誇り、とくに広島に根ざしたサッカー、野球、ハンドボール、バレーボール、陸上などスポーツ界全般に熟知した早川さんの取材記事は機知に富み、人間味あふれる温かさがありました。

中でも湧永製薬や広島メイプルレッズ、山陽高校など県内のハンドボールチーム、選手たちに注ぎ続けた愛情も人一倍!

そんな早川さんから娘のように可愛がられたのが現・山陽高監督の青戸あかねさん。山陽女高→東女体大→イズミ→広島メイプルレッズとトップチームに在籍し、日本代表キャプテンまで務めた名手でしたが、実業団入りした当初はなかなか頭角を現せずに苦しんでいたそうです。

「私が長い間選手を続けられたのは、すごく下手くそな時から、早川さんに取材していただき、叱咤激励を受けていたからです。早川さんがいなかったら、すぐに辞めていました」と青戸さんはきっぱり。

「いつもお誕生日は早川さんのお宅の縁側でお茶したり、回転寿司を食べに行ったりしました。そうして、叱ってくれる人だったんです。叱ってくれて、とても心地よかったんです。ワガママもたくさん聞いてくれました。早川さんに出逢えたから、今も大好きなハンドボールできてるって感謝しています」

「早川さんは12月11日で80歳だったんです。いつもお誕生日前後にお家に行って、いろいろハンドボールの話をしてました。お土産を持って行くけど、結局私が食べちゃうんです。80歳のお祝いが言えなかったのが残念でなりません」としんみり言葉を続けた青戸さんです。

下積み時代に優しく声をかけられたのは彼女ばかりではありません。この20日には湧永製薬の佐藤智仁選手がユニフォームを手に早川さん宅を訪れました。

今でこそ湧永レオリックの看板を背負うベテラン巧者ですが、大学を出て4年ぐらいはなかなか出番に恵まれず、そんな彼を勇気づけたのが、やはり早川さんからの言葉だったそうです。

葬儀当日は試合と重なったことから日本選手権を前にしてのわずかな時間に駆けつけた佐藤選手です。きっと大事な試合を前に早川さんからの檄を受けたかったのでしょうね。

亡くなる直前まで新聞作り

 いつもハンドボールのことに気をかけ、広島県協会のホームページなどに情報提供してきた早川さんは、亡くなる寸前まで仕事に励んでいたそうです。

 

「12月1日に早川さんの手作り新聞『ひろしまハンド』をメール配信してくださっていたので、てっきりお元気だと思っていたんです。

協会ホームページの作業が滞っていると、アップが遅いといつも怒られていました。いつも広島のスポーツ、ハンドボールをこよなく愛していただいた早川さんには感謝の言葉しかありません」と事務局の高原千草さん。

同じく倉岡知代さんも「ハンドボールだけではなく、サッカーや、コカコーラウエストなど色々なチームの話題を身近に感じられるように話され、また心配もしてました。少し前にいただいたカメラは形見のような気がしてなりません。これから大切に使いたいと思います」と声をつまらせました。

亡くなる直前の12月1日に送信された「ひろしまハンド」をごらんください。これは早川さん自らがワードで組み上げたもの。失礼ながら、80才になろうとする大ベテランの手によるものだと知って大変驚いたものです。

最後に私がスポーツイベント編集部に在籍した当時、1983年度シーズンで4大タイトルを独占してグランドスラムに輝いた湧永製薬特集で早川さんに寄稿いただいた記事をご紹介しましょう。実に早川さんらしい思いのこもった力作です。

そうして湧永レオリックを、メイプルレッズをと広島のハンドボールを分け隔てなく愛し続けた早川さんは、これからも多くの人の胸に生き続けていくに違いありません。

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「湧永ハンドボールの魅力」

月日の経つのは早い。あれからもう丸9年が過ぎた。1977年3月の「全日本総合選手権優勝ごほうびヨーロッパ遠征」である。

その時、湧永儀助社長(当時は副社長)のご厚意で約3週間、チームに同行させてもらったのが、今でもつい先日のように感じられる。ロンドンを手始めに、オーストリア、西ドイツ、ユーゴスラビア、ブルガリアと東欧で大男を相手に国際親善を深めたものだ。

チームはその前年、フランチャイズを大阪から広島に移したが、私が心底から“湧永ファン”になったのは、このヨーロッパ遠征で寝食をともにしてからだろう。3週間一緒に生活をしていると、情も移ってくるとはよく言ったものである。

 

ハイレベルな技術と堅固なチームワーク

当時から豪華メンバーが揃っていた。村中オーナーはもとより、市原部長、木野前監督や津川監督、穂積コーチ…数えたらキリがないが、人情の厚い集団であることは間違いない。親切にしてもらったことが、身にしみてうれしい。それが今回、史上初の4冠王に輝いたのだから、取材に困るほど感激してしまった(なんとも恥ずかしい話ではあるが…)。

過去2シーズン、日本リーグで敗れてあと一歩で4冠達成を逃していただけに、今シーズンの最終戦、大同特殊鋼に勝って完全制覇した瞬間は、これまた胸の鼓動を抑えるのに苦労したというのが本音である。社長が喜びを体いっぱいに表して、選手の手の上で舞うシーンを、まさに「やった!」というしか言いようがなかった。

湧永製薬の魅力は--。1969年、木野前監督から7人でスタートした時点からの“伝統”だろう。

というのは“ミスターハンドボール”と称された木野前監督に代表される大技、小技を巧みにミックスした戦いである。大型化が進む現在、あるいは忘れられがちになるきらいはあるが、やはり高度なテクニックはファンの目を魅きつける最大の要素であり、レベルアップへの必須条件である。これを継承できたからこそこの4冠と言えよう。

またよく「湧永のプレーは玄人受けする」と言われるが、それだけハイレベルの技術集団でもある。

チームワークの良さも強さの秘密であろう。メンバーも変わりに変わった。現在は主将・池ノ上や生駒、志賀、それにオリンピック予選で大健闘した井藤らが柱。しかし、それを全日本主将・山本や松本、それに穂積、藤本といったベテランが要所をよく締めている。そこが他チームを引き離しているのではあるまいか。かつて緒方、高橋、戸田のテクニシャンがいたが、それに代わるのが彼らである。

歯車が狂った時の“助っ人”的とはいえベテランの戦いは“新しい黄金期”を形成したといっても過言ではない。

 

個性派結ぶコンビネーションが売り物に

津川監督が「どうしても実感が湧かない。4冠なんて自信がなかったが、なぜか負けずに来てしまった。ウチの場合は勝利より内容が問題だが、その戦いにはまだまだ不満」と言うあたり、“まだこんな力ではない”とでも言いたそうな強気がうかがい知れる。

だが、やはり市原部長の「創部以来、4位以下には落ちたことがない成績が今日を支えている」という言葉は、大切であり、ここまでの道のりの土台であろう。

かつて「お人好しチーム」とか「リーグに弱い湧永」とか、ありがたくない代名詞をつけられてきた。今、やっとそれから脱出した。

確かに人間的に温厚な選手が多く、また礼儀正しい。「社会人としてのスポーツマンであれ」のモットーがよく生きている。そこらに爆発的な強さが直接伝わってこないかもしれないが、内に秘めた勝負への闘志は決して勝るとも劣らない者ばかりだ。

個性派ぞろいを1つの糸で結んでのコンビネーションプレーを売り物にしての快進撃。そこに自分の役割をしっかりとわきまえた頭脳と技を見ることができる。

会社のバックアップがあって、ジプシー練習からは広島移籍で解消されたが、地理的なハンディ、それを乗り越えてつかんだ栄光の歴史は、過去の輝きをいっそう光らせる偉業であり、努力の結晶でもある。

 

手のぬくもりに感じた完全制覇の感激

完全制覇の時、しっかりと握り合った湧永社長の手のぬくもりは、15年の歳月を振り返って感激でいっぱいのように感じられた。その上、8年前にヨーロッパ遠征で歌った「スキヤキ・ソング」「幸せなら手を叩こう」の大合唱が蘇ってきた。

オーバーに表現すれば私のハンドボール取材は湧永とともに歩んできた。日本ハンドボール界のリーダーとして、マイナースポーツからメジャースポーツへの担い手として、今後ますます強く、たくましく育っていく湧永ハンドボールを見守っていきたい。

(スポーツイベント・ハンドボール1984年4月号より)