写真はオムロンFacebookの番組紹介ページから。

障がい者自立とパラスポーツ発展に寄与した情熱医師・中村裕さんの生き様を描いたテレビ番組「太陽を愛したひと~1964あの日のパラリンピック~」を視聴しました。
中村さんの背中を押した立石一真さんとの出会いがターニングポイントでしたが、立石さんと言えば現オムロンの創業者であり、ハンドボールとの繋がりにも強い縁を感じながら番組に見入りました。

今日のパラスポーツ隆盛の礎に

半月ほど前のことですが、大好きなスポーツライターの高城ミナさんが「首を長~くして待ってました」と自身のFacebookで番組紹介をされたことから、8月22日放映のNHKスペシャルドラマ「太陽を愛したひと~1964あの日のパラリンピック~」を視聴しました。

高城さんによれば「1964年に東京パラリンピックが開かれたのも、今日のパラスポーツの盛り上がりがあるのも、この番組の主人公である整形外科医の中村裕先生がいたから」とのこと。これは見逃すわけにはいかないと、しっかり録画もしてテレビの前に陣取りました。

そして、期待にたがわぬ内容に感動するとともに、パラリンピックの父・グッドマン博士から中村先生が受け継いだ「失ったものを数えるな。残されたものをどう生かすか、それが一番大切じゃないか」の明言は、高城さんならずともグッときました。

「太陽を愛したひと」▲番組紹介

光明となった立石一真氏との出会い

また、この番組で注目したのが中村先生と立石電機(現オムロン)創業者の立石一真さんとの出会いです。

障がい者の自立、社会復帰をめざして多くの企業や団体に足を運んで協力を求めた中村先生でしたが、当時は障がい者に対する理解がきわめて低く、どこに行っても門前払いの連続でした。

そんな中村先生の熱意に共感し、温かい手をさしのべたのが立石さんです。中村さんと力を合わせて障がい者自立のため国内初の福祉工場「太陽の家」を設立したことが、1964年の東京パラリンピック開催とパラスポーツ発展へと導く礎(いしずえ)になりました。

我がハンドボールファミリーでつい先日までオムロンに在籍していた“うだじぃ”こと宇田川文雄さんは、創業者だった立石さんの人物像をこう語っています。

「立石電機(現オムロン)の創業者・立石一真は、電動義手の発明で徳島大学から医学博士号を贈呈されています。健康医療機器分野への取り組みと進出は1960年代からのものです。

『太陽の家』は、別府と本社がある京都にあり各々、毎年“車椅子マラソン”が開催され、社員・OBがボランティア活動に参画しています!

創業者は、熊本の出身で朴訥とした喋り方で、社員と気軽に接していました」と--。

▼オムロンの社会福祉活動

オムロンハンドボールに繋がる糸

 立石さんは現在のオムロンハンドボール部とも密接な関わりがあります。

1973年11月に熊本市を本拠地とした大洋デパートの火災事故で140人が亡くなる悲しい出来事がありました。

当時の女子ハンドボール界をけん引し、日本代表チームの中軸を形成していたのが大洋デパートで、多くの犠牲者を出したことから経営母体の大洋デパートが倒産し、チームも解散に追い込まれてしまいました。

1972年のミュンヘンオリンピックに男子ハンドボールが正式種目として復活し、4年後のモントリオールで女子の採用も噂されていた時期であり、大洋デパートの解散は大きな痛手とも言えました。

そんな折り、監督の井薫さんをはじめ、部員13人や大洋デパートへ入社予定だった2人を含め、チームごと新天地に移籍します。その受け入れ先となったのが熊本県山鹿市に工場を持つ立石電機(現オムロン)でした。

熊本県ハンドボール協会が県のスポーツ界や財界に働きかけ、それに熊本出身の立石さんが応じたことで一気に話がまとまったものです。

新生チームで再出発

中村先生とタッグを組んで障がい者の自立を促し、強豪ハンドボールチームの存続に寄与した立石さんですが、それは支援とか救済の思いだけで動いたとは思えません。

「できないではなく、どうすればできるかを工夫する」「改善の余地があるのならば、まずやってみる」といったチャレンジ気質あふれる立石さんには、障がい者スポーツとハンドボールチームの未来に魅力を感じつつ、いずれも会社と双方がwin-winの関係になりうるという確かな先見性があったのではと想像しています。

「会社のみんなが悲しみ、苦しみの底にある時に自分たちだけが恵まれた道を歩むわけにはいかない」と当初は立石電機への移籍を固辞していた井さんや選手たちでしたが、「大洋のハンドボールを残したい」と奔走した藤田八郎さん(当時の熊本県協会理事長で井さんの済々黌高ハンドボール部恩師)らの説得に加え、そんな立石さんの度量の大きさが頑なな心を氷解させたのではないでしょうか。

2つの「たいよう」に先見の明

そうして障がい者サポートが現在のパラスポーツの隆盛につながり、ハンドボールは日本女子がモントリオールオリンピック出場、そして立石電機-オムロンは史上最多の優勝回数を誇る最強チームへと成長を遂げました。

障がい者の自立施設「太陽の家」とハンドボールの「大洋デパート」という、2つの「たいよう」に関わった立石さんの人柄に強く心惹かれるとともに、関連する題材が2週に渡って特集された澤宮優さんの記事「五輪予選はなぜ密室で行われたのか」(※サンデー毎日2018.7.29、同8.5日発行号)を改めて読み返し、感慨を深くしました。

また、熊本ハンドボールの父と呼ばれ、大洋デパートの立石電機移籍への橋渡し役となった藤田さんは現在千葉県野田市にお住いです。この夏から体調を崩されて入院中と聞いていますが、ぜひお元気になられて当時の話をうかがいと願うばかりです。

さらに資料を調べていたら日本旅行社長の堀坂明宏さんも熊本出身でハンドボールに熱中し、中学時代には大洋デパートの選手たちから指導を受けたという1年前のインタビュー記事に出会いました。

ハンドの盛り上がりが熊本の復興に

「熊本地震からの復興をお手伝いし、そのためには熊本へ多くの観光客が訪れることが復興の近道」と話す堀坂さんです。今年にアジア選手権、来年には世界選手権と、ともに11月に女子のビッグイベントが熊本で開催され、来夏には熊本インターハイも控えています。

現在、日本協会のメインスポンサー(旅行会社部門)に名乗りをあげている同社の心意気を頼もしく思うとともに、中村先生と立石さんのつながりからさまざまな縁を感じつづ、ますますハンドボールの盛り上がりを願った初秋の1日でした。

※サンデー毎日の澤宮さん記事に関心がある方はご一報ください。