ジープさんの愛称で慕われて

"熊本ハンドボールの父"が12月3日未明に亡くなられました。藤田八郎先生、95才の生涯でした。

翌4日の昨夕に、お住まいのある千葉県野田市で執り行われた通夜会場では、たくさんの花に囲まれながら和かで人間味豊かな先生の遺影が微笑んでいました。そして、棺の中で眠られた藤田先生のお顔は安らかそのものでした。

折しも熊本でハンドボール女子アジア選手権が開催中で、同日行われた山鹿市と八代市の両会場では藤田先生の死を悼み、選手らが黙とうささげました。

ハンドボール王国の礎築く

熊本県ハンドボール協会名誉顧問で愛称は「ジープ先生」、「ジープさん』。県協会理事長時代はハンドボールの種を蒔き、育てるという、まさしく熊本ハンドボールの礎を築いた人でした。

戦後間もない昭和1946(昭和21)年に熊本県の済々黌(せいせいこう)高校に体育教師として赴任、以来1982年まで教鞭をふるう一方で、愛車のジープで県内を駆け巡りってハンドボールの普及活動に心血を注ぎ、その行動エリアは同じく未開拓だった九州各地にも及びました。

大学時代(日体大、当時は日本体育専門学校)で出会ったハンドボールの魅力を1人でも多くの人に伝え、ハンドボール競技者、愛好者を増やすために奔走し、「このスポーツをメジャーにするんだ」という熱い思いが身体中にみなぎっていた藤田先生でした。

1970年代後半にスポーツイベント・ハンドボールの新米記者として初めてお会いした時には、その小柄な身体から発するオーラが半端なく強烈で、まるで「小さな巨人」を見る思いだったのを鮮明に覚えています。

そんな先生でしたが、そのあとお会いするたびに、すぐにも満開の笑顔とよく通る大きな声で「やあ、元気かい! いつもご苦労さん!」と言葉をかけていただき、握手を交わすその強さに「がんばれよ」との激励を感じたものでした。

熊本ハンドボールと言えば、真っ先に1997年の男子世界選手権が思い浮かびます。初めてヨーロッパ以外の開催、それもトータルで史上最大となった20万人以上の大観衆を集めて世界中から「熊本」が注目されました。

招致、開催までには大きな苦労、難題があったでしょうが、それをクリアできたのも藤田先生の存在抜きには語れなかったはず。
ハンドボールの普及、強化に力を入れた一方で、熊本から数多くの有能な人材が輩出されたのが、私的には藤田先生の最大の功績だと思っています。なにより「組織は人」だからです。

その最たるものは、竹野奉昭さん(故人)、井薫さんという済々黌高時代の教え子2人が1976年モントリオール・オリンピックの男女両監督を務めたことでした。
そのほか”藤田門下生”たちが指導者、選手、協会役員、さらには政財界などそれぞれの分野でキラ星のごとく活躍しました。

有能な人材を次々と輩出

だからこそ熊本で1997年男子世界選手権、そして2019年女子世界選手権というビッグイベント開催に名乗りをあげることができたのだと思っています。

こうして八代市、山鹿市、熊本市で開催中の第17回女子アジア選手権も連日大盛況のようで、7日からの決勝ラウンドもアジア最強をめざす”おりひめJAPAN"を応援する県内外の観衆で超満員に膨れ上がるものと期待しています。

また、今や熊本の名物となっているハンドボール教職員大会は、1960年の熊本国体を記念して始められたもので、国体を契機に愛好者を増やし、ハンドボール王国にしたいという藤田先生の願いが込められたイベントの1つでした。

この大会は体育ばかりでなく、国語や理科、英語、数学など他の教科の先生や職員も参加する学校対抗戦で、和やかな雰囲気の中で長い歴史を重ねてきました。多い年には100チームにも迫るほどの参加数があったと知って驚くばかりです。

先生たちのハンドボールへの理解が深くなり、各学校の部活増加はもちろん部長、監督などスタッフの引き受け手に困らないという好循環が得られたとも聞いています。

その他でも熊日学童オリンピック、中学・高校のオムロンカップや熊本カップ、一般の県オープン選手権など全国に先駆けて特色のある大会を定着させ、盛り上げてきたのも、藤田先生の「やろうじゃないか!」という号令があり、また先生の想いを受け継いでのスタートでした。

今夏で33回目を迎えた高校1年生大会は「藤田八郎杯」の冠がつき、藤田先生自身、この大会のために毎年の熊本行きを楽しみにしていたそうです。

つねに先見の明を持って活動

さらにもう1つ。熊本で活動していた実業団チーム「大洋デパート」が、1973年の本社火災事故で多数の死者を出したことから会社が倒産、ハンドボール部も解散となった悲劇がありました。

そこで日本女子最強チームがなくなるのは熊本の、日本のハンドボール界の大きな損失として奔走したのが藤田先生でした。

熊本に事業所があった立石電機(本社は京都、現オムロン)に働きかけ、スタッフ、選手ともどもチームごと移籍に至ったのが、その後、立石電機を中心とした日本女子がモントリオール・オリンピックに出場し、こうしてオムロンが球界を代表する強豪チームであり続けていることに繋がるのです。

ハンドボールが熊本復興のシンボルに

いまでは押しも押されもしない「ハンドボール王国」となった熊本ですが、藤田先生と熊本県民にとって胸が張り裂けそうになった悲しい出来事がありました。言うまでもなく2016年4月14日の熊本大地震です。
甚大な被害に県内すべてが暗く、悲しい空気に覆われていました。

そうした中で「熊本を元気にしよう!」「がんばろう熊本!」を合言葉に、返上も噂されたハンドボールの2019年女子世界選手権を予定通りに開催することが決まりました。
熊本城の再建とともにハンドボールを「熊本復興のシンボル」にしようということでした。

その決断が簡単になされたとは思えません。「なんでハンドボールが!」と反対や批判、疑問の声も多かったでしょう。それでも開催が決まり、さらにはその1年前となる今年、世界大会のリハーサルとも言うべき女子アジア選手権の開催を実現したのです。

それはすべてに藤田先生が礎を築いた熊本ハンドボールの認知度と実力が群を抜き、復興のシンボルとなりうる「信頼」があったからにほかならないでしょう。

サンキュー熊本!ガンバレおりひめ!

2020東京オリンピックを控え、この二大イベントが日本のハンドボール界に大きなブラス効果をもたらす期待が膨らみます。

だからこそ声を大にして言いたいのです!
国内のハンドボールに関わる私たちは、みんなで「熊本のハンドボール」に感謝し、応援をするべきだと!

ここ2ヶ月ほど前から体調を崩して危篤状態が続いていたという藤田先生でした。
それでも自身が愛情を注ぎ続けた熊本でアジア選手権が開催される、これは病床に臥せっているわけにはいかない、おりひめJAPANの応援はもちろん、大会運営に奔走している各スタッフたちに「ご苦労さん!」と声をかけるべく、その魂を熊本に送り込んだのではないでしょうか。

7日から足を運ぶ熊本県立総合体育館には藤田先生が間違いなくいらっしゃるはずです。
棺の藤田先生には「一緒に熊本でおりひめを応援しましょう」と声をかけました。

きっと先生は、以前のように「よぅッ!」と右手を上げ、満面の笑みを返していただけると確信しています。
藤田先生の応援は、おりひめたちにとってなによりもの力になるはずです。

そして、「サンキュー熊本! ガンバレおりひめJAPAN!」

そんな全国からの応援がジープ先生がこよなく愛した熊本に届くことを願ってやみません。合掌ーー。