毎月お届けする「ハンドボール愛ジャーナル」第2回は関西をベースに活動する女性レフェリーの福岡美千子(大阪在住、京都府ハンドボール協会常任理事、近畿ハンドボール協会事務局・審判部事務局)さんをクローズアップする。ここでは高校時代からの愛称「セリさん」としてご紹介しよう。

“高校3冠”の敏腕マネージャー

小学生の時はサッカーをしていたセリさん。中学に進んでからは陸上部で長距離をがんばった。
当時は珍しかった女子サッカーに夢中になったぐらいだからボールセンスには自信があった。高校はスポーツ特待があった山陽女子高(広島)に進み、冬の寒い時期に訪れた練習見学で、身体中から熱気を発散させてコートを駆けめぐっていた先輩たちが「めっちゃ、かっこいい~!」と思い、ハンドボール部の門をたたいた。

最終学年で春のセンバツ、夏のインターハイ、秋の国体を制して3冠王に輝いたほどの強豪校にあって、ヒザに故障を抱えていたセリさんは高2からマネージャーに転向していた。
そんな彼女について、当時のキャプテンで3年間同じクラスで机を並べていた三輪華江子さん(沖縄在住の小学生指導者、ご主人は日本協会普及指導部長の三輪一義さん)は「下級生たちを動かしながら、あらゆる雑用を一手に引き受け、裏キャプテンとしてチームになくてはならない存在だった」と話す。

夢中で過ごした高校を卒業すると1年間の予備校生活を経て国立の京都教育大へ進学。大学4年間は選手復帰してサイド、ポストで動き回るチャンスメーカーとしてプレーした。高校時代から引き継ぐケガは、ヒザばかりか足首をも悪化させ、入院手術すること3回と松葉杖姿がトレードマークみたいな時期を過ごしたものの、チームはずっと1部リーグに在籍、何度かあった入れ替え戦のピンチも降格することはなかった。

卒業後の志望は体育の教員だったが、折しも京都国体を控えていたことから採用枠はなく、「悔やんでも仕方ない」と大手電機メーカーに就職。システムエンジニアとなり、現在もプロジェクトマネージャーとして企業の最前線に立っている。
 大学卒業から18年間というもの、仕事に従事する一方で家事や育児をしっかりこなすハンドボールとは無縁の生活を送っていた。

そして40才になった時、再びハンドボールとつながる転機があった。
高校時代の恩師であるハンドボール部監督の片岡賢二さんが亡くなり、広島の葬儀から戻った当日に大学時代のキャプテンから連絡が入り、京都市協会主催のハンドボール教室に誘われた。
8月の終わりから10月初めまでの平日夜、2時間ほどの練習が6回あるとのこと。

それが第2のハンドボール人生がスタートするきっかけとなった。
参加者の多くが「BABARS」というマスターズチームのメンバーで、それから夏の全国マスターズに出場するようになり、大学時代にD級資格を持っていたセリさんがチーム帯同レフェリーを務めるようになった。

45才で本格的なレフェリーの道へ

そして、運命的な再会があった。
2010年の夏、前述の三輪さんと京都の第23全国小学生大会で再会。沖縄代表の港川小クラブ(沖縄)を率いた三輪さんと旧交を温め、チームのお世話していくうちに心の中に火がついた。
「私もガエ(三輪さんのニックネーム)のようにもっとハンドボールに関わりたい。それができるのはレフェリーしかない。がんばって全国小のレフェリーを吹いてみよう!」と思い立った。
その時、45才。セリさんの本格的なレフェリー生活がスタートしたのだ。

まずはC級資格を取ろうと目標を定めた。全国小はブロック大会扱いとなるので、その条件が満たされる。
各カテゴリーの大会に足を運んでたくさんの経験を積み、当初の目標をクリアして満足感に浸った。
すると、さらにセリさんの動きがエネルギッシュになる。49才になった年に日本協会の規約が変わり、50才を迎える年度で自動引退となっていたものが、B級以上のレフェリーは定年が3年延び、53才までC級資格者として吹けるというのだ。
そうなればあと3年も全国小の大会を吹けるし、夢のような赤ワッペンをずっと着けてもいられる。
「これはもうチャレンジするしかない!」と一大決心したセリさんだった。

ラストチャンスで赤ワッペン取得

それからというもの、休日はほとんどレフェリーの実践にあて、平日も往復1時間の通勤や就寝前の時間を筆記試験の勉強にあてるなど必死の努力を重ねた。 そうして2度目のチャレンジとなった昨年7月の資格試験に見事合格。ラストチャンスでそれまでの黄色から赤に変わったワッペンを胸につけた時の喜びはひとしおだった。。

ところがいざ赤ワッペンをつけて笛を吹いてみると、それまでとは違ってベンチや選手の視線がきつくなり、クレームやアピールも容赦なくなったと感じた。 とくに小学生は、プレーの動作やスピード、体格差など大学、社会人とはかけ離れていたおり、笛の吹き方1つとっても言葉のかけ方やわかりやすいジャッジを心がける必要があると念じた。

そのためには、まずは目を慣らそうと京都近郊のプライベート大会や練習試合に足を運んで精力的に笛を吹いた。より高い水準を求めようと自ら頼み込んで関東学生リーグの場を踏んだりもした。

「ていねいな笛」がモットー

そんなセリさんが一番大事にしているのが「ていねいに笛を吹く」こと。
なんでイエローカードを出すのか、退場を命じるのか、それをはっきり伝えたいと思って試合に臨んでいる。

「退場者は出したくないんです。イエローカードでやめてもらおうと、しっかりコミュニケーションすることを大切にしています。
 退場者を出してしまった時、自分の表現の甘さで伝え切れていなかったのだと、ゴメンという気持ちになりますね。幸い自分の周りには同じような思いを持つレフェリーの方が多いので、これからも今の路線を歩んでいきたいと、そう思っています」

2018年度いっぱいまでB級レフェリーとして全国小の舞台で思い切り笛を吹けるし、それ以降も赤ワッペンを着けたまま都道府県レベルの大会を担当できる。
今後のプランについては「尊敬する石田真由美先生(京都・草内小クラブ監督)のチーム帯同であっちこっちと吹きに行きたいですね。
また、夏などは公式ライセンスが必要な大会が重ってレフェリーが不足してしまうので、自分でお役に立てるなら、吹ける範囲でずっと携わっていたいです」と、またまた熱い言葉が返ってきた。

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母校の後輩たちと感動を共有

そんな中、今年2月から京都教育大ハンドボール部のコーチングスタッフとして監督の小山勉さんをサポートした。
2部に甘んじていた母校のチームは初心者が多く、しかも4年生はキャプテンの平塚彩音、小野田真優選手の2人だけ。かんばり屋の彼女たちを助けたかったし、小山さんのハンドボール感をチームに伝える役目ができれば少しでも上をめざせると思った。そして、なにより応援しているOB、OGがいることを学生たちに知ってほしい気持ちも強かった。

チームは秋季リーグで1位となり、10月14日に龍谷大との1-2部入れ替え戦に臨んだ。
試合前、小山さんとセリさんがスポンサーとなって作ったオリジナルデザインのシャツを身にまとって気持ちを1つにした。
制作を依頼したのは各大会で顔を合わせるごとに意気投合したプロテッジの山田美代子さん。何度ものデザイン変更に嫌な顔せずに対応し、別掲のような素敵なデザインの『We’ll return』シャツが完成した。

そして、チーム一丸となって戦った結果が1部昇格。4年生2人たちは思い残すことなく引退することができた。
入れ替え戦にかけた想いは自身のFacebookページで熱く語られており、京教大セブンを代表して3人の声も付記した。
目標達成となった今、新チームが必要とすれば小山さんとのコンビで来季もベンチに座ることになるはずだ。

第2の人生は“ご恩返し”

ご主人と兄弟2人の4人家族。高校3年生の長男・孝太郎君は、1年から審判登録をしていたこともあり、親子ペアで笛を吹けたことがいい思い出だ。来春に志望の大学進学が決まって親子ペアの試合機会が増えれば、こんなうれしいことはない。

現在の自分を見つめながら、セリさんはふと思うことがある。
「ひと言で言うなら“ご恩返し”ではないかと…。
高校、大学でハンドボールから与えられたものは、とてつもなく大きな財産だったのにもかかわらず、私は教員にならなかったことを理由に逃げました。なんのご恩返しもせずに!
ガエが初めて全国小へ港川小を連れてきた時、『もう逃げない。マネージャーとしての責務を果たそう』と自身の原点に戻ったのだと思います。プレーヤーが輝くために、私ができることはなにかと思って見まわしたら、大会運営やレフェリーという周辺のことがたくさんあったので、できる限りやっていこう思い、そしたらたくさんの熱い方々と出会えました。
ガエを直接サポートすることは難しいけどガエと同じ志を持った指導者の方々のお役に立ちたい、そう願って動いていたら“熱い”と言われるようになっていたのではないでしょうか」

これからの人生も選手のため、チームのため、仲間のためにと動き回る生活が続き、大好きな仲間たちの輪が広がり、爽やかで目いっぱい熱いセリさんのハンドボール愛がどこまでも深まっていくはずだ--。

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