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1ヵ月前からスタートした#JAPANカップ応援プロジェクトは「日本代表応援」の話で締めくくろう。10年前、日本代表をオリンピックへ送り出そうと1万人の大観衆の中で翻った「HANDBALL JAPAN 」のフラッグが、当時の応援サポの熱い想いとともに、こうして今、彗星JAPAN、おりひめJAPANを応援するリーダーたちに引き継がれた。

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日本スタイルの応援を追い求めながら応援コールをあげるサポ集団に幸あれ! この6月23日のJAPANカップ高崎大会は「みんなに笑顔で帰ってもらおう!」が合言葉。楽しく、熱いおりひめ応援が会場いっぱいに響き渡るはずだ。「笑顔で終わろうGO!GO!ニッポン!」--。

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㊧10年前の応援フラッグが齋藤さんから㊨山本さんへ

 

忘れえぬオリンピック再予選

10年前に前代未聞のことが起こった。テレビや新聞などメディアがこぞってハンドボールを取り上げ、そこで報じられた「中東の笛」はまさに社会現象となった。

それを聞いて「あの~ッ!」と思い出す人は数え切れないはずだ。

当時のアジアハンドボール連盟(AHF)を牛耳っていたクウェートが、アジアの各大会でクウェートを絶対有利とするためにレフェリーを介入し、そのあからさまな不正ジャッジを繰り返してアジアの頂点に立ち続けた。

2007年9月に行われた愛知県豊田市での北京オリンピック・アジア予選も「中東の笛」が吹き荒れ、結果は1位・クウェート、2位・韓国、3位・日本の順となった。

しかし、そんな時代がいつまでも続くわけもなかった。

ことの重大さに世界ハンドボール連盟(IHF)が動き、「中東の笛」に蹂躙された9月愛知の大会結果は白紙に戻され、その4ヵ月後の2008年1月29日(女子)、30日(男子)に東京・代々木第一体育館でオリンピック再予選が行われることになった。

日本中の、いや世界中の関心がこの2日間に集まった。

30日男子韓国戦の前売り券は予約開始30分余りで完売になり、スタンドが超満員になるのは間違いない。もう一度めぐってきたオリンピックの夢を選手たちの手につかませるには会場が一体になっての熱い応援が不可欠だ。今度こそみんなの力を結集して日本をオリンピックに送り出そうじゃないか。

炎の応援フラッグが10年ぶりに

そこで立ち上がった男たちがいた。愛知の予選時に人一倍の悔しさ、空しさ、怒りを味わった応援リーダーたちだ。

埼玉在住の齋藤和也さん、豊田貴之さんがコンビを組んで音頭をとり、愛知のカズさんこと岡本和也さんら全国の応援リーダーたちに声をかけてサポ集団が出来上がった。

1万人近くが詰めかけた体育館はJAPANブルーに染まり、そして齋藤さんらのリードに誘われた大観衆が声を限りの応援を日本男女に送った。結果はともに韓国に屈し、世界最終予選でもヨーロッパの壁にはね返された日本のオリンピック出場は成らなかった。

それでも大観衆の中、一体感にあふれた日本応援は今でも記憶の中に鮮やかに刻まれている。

つい先日、10年前に大応援をリードした齋藤さんを訪ねる機会があった。当時の様子や彗星JAPAN、おりひめJAPANに熱い応援エールを送るカズさんらに託す思いを聞いてみた。

「私が応援に力を入れだしたのは2004年のアテネオリンピック予選あたりからですね。(齋藤さんが営む)薬局関係のつながりで湧永製薬のハンドボールチームを応援をするようになり、地元に近い八潮エイトアリーナ(埼玉県八潮市)での日本リーグでホームの大崎電気さんを相手に会場を湧永応援団で支配しようじゃないかと企てたことがあったんです。

薬局のオヤジたちも総動員して480人収容の会場を253人の湧永が占めました。そうしたら湧永の選手たちがとても喜んでくれたのです。

それからは声の力、サポーターの力で湧永を応援し、地域とハンドボールを元気にしていこうをテーマに活動をしてきました」

熱い想いをバトンタッチ!

そんな齋藤さんは「まんぼうさん」の愛称で選手やハンドボール関係者らに慕われながら、学校薬剤師としてのアプローチにより、湧永セブンの協力を得て小学校でのハンドボール授業導入を働きかけたりもした

今では自営の薬局や関連支部の取りまとめなどで多忙な毎日に追われる身。ハンドボール応援は限られた日に湧永セブンの応援をサポートするのがやっとで、あの再予選のように日本応援団の先陣に立ってのリードなど望むぶべくもない状況だ。

「当時と同じことをやっていては組織の進歩はありません。下の人に道を作ってあげるのも自分たちの役目だと思います。

だからと言って日本のハンドボールに背を向けているわけではないんです。例えばスポーツファーマシストとしてアンチ・ドーピングの啓蒙をしたりと、会場にいなくてもやれるサポートはあるんです。その時にできる人が、できることを、やれる範囲でやるという考えでハンドボールに向き合っています」

先日の「銘苅ハンドボールクリニック2018  in 三郷」では中学生や保護者たちにドーピングに対する心がけなど分かりやすい説明で参加者たちの心をつかんでいた。

そんな齋藤さんだから、10年前に自らが先頭に立っていた応援スタイルから変化があって当然だという。
「やるかやらないかなら、やってみて出された結果を反省して改善していけばいいと思います。

前例のない応援など新しいことにもチャレンジしし、ベテランの人たちが心配した通りに失敗したこともありました。しかし、それは10年たつと正解かもしれません。毎回の応援で肌で感じることが大切ではないでしょうか。

いい結果を継続し、ダメなのは外していけばいいし、やらない選択などありません。

いま日本代表をリードするカズさんは、あの時の私と同じようにいろいろ試行錯誤しながら、いまの応援スタイルを一生懸命に求めているのではないでしょうか。これからもみんなと力を合わせて素晴らしい日本スタイルを作り上げてほしいと願っています」と笑顔をほころばせた。

日本代表の応援団組織を!

そして、齋藤さんら当時の応援リーダーたちの熱い想いを受け継いでほしいと3本の応援フラッグがファミリー応援団のゴンちゃんこと山本純一さんを通じて16日東京体育館に届けられた。

日本代表のシンボルカラーのブルーの地に力強く「JAPAN」の文字が染め抜かれている10年前の代々木第一体育館のスタンドで翻っていたフラッグだ。

当時の日本代表キャプテンでハンドボールのメジャー化を標榜してサポーター組織を立ち上げた中川善雄さん(現・トヨタ自動車東日本監督)が発起人となって作られたものだった。。

「JAPANカップであの旗が振られると聞いて感激しています。サッカーの「ウルトラス」のような日本代表の応援組織がハンドボールでもできないものかと思って作ったものでした。

あの旗が今の応援リーダーの皆さんに使ってもらい、これから応援団組織ができるきっかけとなればこんなうれしいことはありません」と言葉を弾ませた中川さんだ。

求めたい日本代表の応援スタイル

所属チームや身内には熱く応援できるが、それが日本代表となるととたんにトーンが落ちてしまうのが多くの例。このJAPANカップの徳島、東京ともそうだった。

チーム、選手の情報がなく、なじみが薄いせいもあるが、静かに集中して試合を見ていたいという人もいる。それぞれの応援スタイルがあって当然だ。

そんな中で、声も出せず消極的な人も自然と手拍子がでるようなスタイルが盛り込まれ、ここぞという場面で熱い応援コールが出るなど、ハンドボールならではの日本応援スタイルが編み出されていいはず。

2019年熊本女子世界選手権、2020年東京オリンピックにはそんなものが熟成され、日本全国に彗星JAPAN、おりひめJAPANを応援する輪が広がってほしい。

また、うれしいことに16日の東京ナイトでミュージシャンの園部英昭さんが日本代表応援歌を作ってくれることになった。近い将来、みんなでスタンドで声を合わせて高らかに歌える日がくれば最高だ。

合言葉は「TOGETHER」あるのみ!

6月13日の徳島大会で初めて応援リーダー席に入り、ネームボードを差し上げたとき、熱い思いが走った。

みんなで応援を楽しみ、そしてミーティングしながらいいものを形作っていけばいい! 応援サポもファンも、ファミリーも、場内MCも、イベント制作スタッフ、そして日本協会や地方協会も! みんな、みんなが仲間になることが一番大切だ。

合言葉はそう、やはりTOGETHERあるのみだ!